2025年9月7日説教原稿

主の名を呼ぶ~妬みからの解放(2)~ 創世記4:8-26

 ひと月前の礼拝の続きです。創世記の4章、アダムとエバの息子二人、長男のカイン、次男アベル。兄のカインが弟を殺しました。過失ではなく故意です。何が動機であったかというと、妬みでした。主なる神にささげものをしました。アベルのささげものに、神は、目を留められましたが、カインのささげものにはそうでありませんでした。

 結果が違う理由は何だったのでしょうか。ともあれカインの心は激します。4:5〈それでカインは激しく怒り、顔を伏せた〉。カインは顔を伏せて地面を見ています。神と話そうとして、顔を上げることはいたしません。カインの父であるアダムがそうであったように、カインもまた〈主の御顔を避けて〉(3:8)しまったのかもしれません。

 神の顔を避け、神との交わりを嫌うカインに、神は語りかけておられます。4:6-7〈【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」〉。

 神は、カインのゆえに予防線を張られました。大きな罪を犯す前に、神からの警告を、私たちも受けるときがあります。しかしカインは、神と語ろうとはしませんでした。それゆえに新約聖書では次のように理解されます。Ⅰヨハネ3:12〈カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです〉。

 カインにも宗教心がありました。しかしアベルのような信仰がなかったのです(ヘブル11:4)。この場合、信仰とは、神からの恵みでもあります。

 そして妬みの心とは、人にとって手強い相手です。〈憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができるだろうか〉(箴言27:4)とあります。嫉妬心は、憤りや怒りの感情よりも強いのです。妬みに立ち向かうことができるのは、神の恵みしかないのかもしれません。

 さらに〈穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ〉(箴言14:30)とあります。私たちは嫉妬心を放置していては危険であり、妬みから解放される必要があります。人の心を妬みから自由にするのは、神の恵みに基づく信仰の働きです。

 一言祈りましょう。「主よ。再び私たちは学びます。人は、だれもが神によって造られた者ですが、賞賛を得るために神から離れたり、評価を得るために神を利用したくなったり、神をあがめることの少ない者です。そんな私たちが今日もあなたに招かれて、あなたの栄光を見させていただきます。人として来られ、十字架で死なれた、栄光の救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(カインによる町の誕生)

 〈カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した〉(4:8)。これが聖書の記す、人類史上、最初の殺人事件でした。いまは面識のない人を手にかけるような事件が増えて注目もされますが、残念なことに、今でも近親殺人は多くて、その関係に葛藤や利害背反のあることが動機となるようです。

 カインの妻(4:17)を始め、この当時もアダムとエバとカインの他に人類はいたはずですが、カインには神が語りかけました。4:9a〈【主】はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」〉。

 この問いかけは、3:9のアダムになされた問いとよく比べられます。エデンの園で戒めを破ったアダムに、主は〈「あなたはどこにいるのか」〉と呼びかけました。深く理解しようとすれば、自分が今どこにいるのか神に答えられなくなってしまったし、実は、兄弟や隣人がどこにいるかも答えに窮するようになってしまっているのです。

 カインの答え〈カインは言った。「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」〉(4:9b)。このあと、カインは、エデンの東に住んで、自分の息子の名にちなんだ〈町〉を造ります。弟に対して兄としての責任を放棄したカインが、人が密集する〈町〉を造るというのはちゃんちゃらおかしい(笑止千万な)気がしないでしょうか。

 そうなのです。私たちは人の集まる、町を、都市を、大都会を造ります。しかし人口が密集する大きな〈町〉でこそ、人と人との関係が希薄にならないでしょうか。

 カインは殺人犯でした。殺された弟(アベル)の血が大地から叫んでいて、この広い大地からカインはもはや収穫を得ることはできないというのです(4:10-12)。そしてカインは〈さすらい人(放浪者)〉(4:12&14)になります。〈さすらい人〉であるカインが、定住地である〈町〉を建てる。何か不思議な気がします。

 しかし今回、私はこう考えます。カインでない誰かが大地を耕して収穫を得ます。カインがそれ(食糧)を得ようと思えば、市が立って(取引や商売のある)〈町〉を造るしかなかったのではと思うのです。

 また、カインは、人を恐れるようになりました(4:14)。なぜかといえば、自分が人を殺したので、人が人を殺せることが分かってしまった。またカインには良心の呵責があったので、〈だれでも〉刑罰の執行者となって自分のいのちを取るはずと、考えたのかもしれません。カインは自分だけで決めつけた指名手配犯(お尋ね者)です。

 そしてそのような〈さすらい人〉のカインにとって、いちばん安全な場所は〈町〉だったかもしれません。先ほど〈町〉のほうが人も多く、密集もしている。しかし人間関係は希薄だと申しました。〈町〉と田舎の両方に住んだことのある方は分かるかもしれません。田舎は、住んでいる人の数は少ないけれど、その人間関係を支配controlすることは難しいのです。その点、〈町〉は人間関係を選べます。カインは他人を恐れつつ、それほど恐がらなくてもよい環境として〈町〉を建設いたします。

(カインと六代目のレメク)

 〈町〉を造ったカイン。このカインは自らに処罰を執行する何者かを恐れていました。そんな殺人者のカインのために、神はこのように言われました。4:15〈【主】は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」【主】は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた〉。

 〈いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を〉(出エジプト21:23-24、申命記19:21)とモーセの律法も言っているのに、この箇所で神はカインに特別な情けをかけています。〈カインを殺す者は七倍の復讐〉があるのですから、カインに危害を加えようとする者にはよほどの覚悟が必要になり、さらに〈だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた〉ので、カインの安全は、大きく保証されました。

 4:17からはカインではなくカインからは六代目(アダムからだと七代目)のレメクのことが記されます。4:19-22〈レメクは二人の妻を迎えた。一人の名はアダ、もう一人の名はツィラであった。4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。4:21 その弟の名はユバルであった。彼は竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった。4:22  一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。トバル・カインの妹はナアマであった〉。

 これに24節までを加えて記されているのは、とくに三つあります。

 アダムから七代目、カインから六代目のレメクは、①二人の妻を娶った。②三人の息子が、新しい生業の創始者となった。③レメクは恐ろしい思想の持ち主であった。

 ①レメクはアダとツィラという二人の女性の夫でした。旧約聖書は、一夫多妻制が現実としてあったが、複数の配偶者が家庭にいたことで、きびしい葛藤が生じたことを描きます。詳しいことは書かれていませんが、レメクも例外ではなかったでしょう。

 ②アダの子としてヤバルとユバルが記され、ツィラの子としてトバル・カインが(妹のナアマと共に)記されます。

 ヤバルは〈天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖〉です。七代先のカインは農民で、牧畜をしていたのはそのカインに殺されたアベルでした。ヤバルは、死んだアベル以来、途絶えていた牧畜業を再開したのかもしれません。とすれば、カインの一族は、町を中心に、農業も牧畜業もカバーするようになりました。経済が強くなったはずです。

 ヤバルの弟、ユバルは〈竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖〉です。音楽の祖、あるいは、もっと広く芸術全般の祖に違いありません。真善美ということばがありますが、人には、学問と道徳だけでなく、美を追究する芸術も必要です。

 『クリスチャン新聞福音版』の9月号に、芥川賞を今年受賞した鈴木結生さんという若い作家へのインタビューが載っています。信仰と芸術について良い示唆が与えられますので、ぜひお読みください。文学もそうですが、音楽、絵画、彫刻、舞踊、演劇、映画など、芸術には様々なジャンルがあります。

 それからトバル・カインは〈青銅と鉄のあらゆる道具を造る者〉です。青銅と鉄の道具は時代を変えました。これは技術。科学技術の進歩です。こうした技術の進歩が人間にあるので、良いも悪いも、現在の人新世Anthropoceneに至りました。

 人類の歴史は、生産による経済、芸術による文化、技術による文明、それらの進歩があります。これらの進歩が、アベルやセツの信仰者の流れではなく、カインの一族(不信仰者)の流れから生じているのは、残念なことであります。もちろん情報の行き来しやすい、自由を〈町〉という環境のなせるわざなのかもしれません。

 長い目で見れば、私は、無神論より有神論、それも三位一体の神を告白するキリスト教信仰が、健全に経済や文化や文明を進歩させると思っています。しかし、経済や文化や文明、あるいは産業や芸術や技術が、単純な信仰の結果ではないのです。異教や無神論をルーツにしていたとしても、ピリピ4:8で言っていることは心に留めるべきでしょう。〈すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい〉。私たちは、神の光に照らされながら、世のことについては是是非非で考えるべきです。

 ③レメクの恐ろしい思想を言わなければなりません。それは4:23-24です。〈レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。4:24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」〉。

 二人の妻たちに自分がいかに強く偉大な者であるかを誇る、レメクの歌です。

 しかし何と書かれているでしょうか。〈私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために〉。〈目には目を、歯には歯を〉は「受けた以上の仕返しをするな」という戒めでもありますが、レメクは受けた傷の報復に相手のいのちを奪うと言っています。そしてカインは主の特別な保護を得ていましたが〈カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍〉というのです。

 以前「倍返しだ」「十倍返しだ」という台詞がテレビドラマで少し流行りました。しかし、これはレメク本人が、幼気な子どもも含めて、自分に傷を負わせた者全員に死を与えると言っています。神からの審判ではなく、自分が審判者です。

 レメクは、自分の六代前が神によって特別に愛され守られたことを認めておりません。そして自分が〈町〉で生殺与奪の権を持つ者として誇っています。〈欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える〉(ピリピ3:19)。このことばが、そのまま当てはまるのがレメクです。罪を犯したとき悔い改めをせず特殊な守りだけいただいたカインは、六代目の子孫にレメクという残忍な怪物を生み出してしまいました。

(主の名を呼ぶ)

 アベルの血は叫び、カインの一族が栄える地上でしたが、別の希望も生まれていました。4:25-26〈アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言った。4:26セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた〉。

 兄が弟を殺す。カインによって、もうひとりの息子を失ったアダムとエバは、今でいう被害者家族でもあります。三男としてセツが与えられ、セツの流れもまた続いていきます(5章の系図参照)。〈人々は【主】の名を呼ぶことを始めた〉。これは本物の信仰者だけができることです。

 セツやエノシュの流れは、経済や文化文明において劣っているように見えたかもしれません。しかし、この流れはカインのように妬むことはありませんでした。主の名を呼んで祈ることができたのです。それゆえ聖なる神の裁きを信じることもできました。そして、カインの一族のためにとりなし祈ることさえできたに違いありません。

  聖霊を知らない宗教心ではなく、まことの信仰。それは礼拝に集うと共に、個人的にも祈る信仰です。目の前の優劣でなく、神の約束による絶対的な恵みを信じる信仰。それは、イエス・キリストの十字架の贖いと復活の力を信じる、救いの信仰でもあります。

 祈りましょう。「愛する神。私たちが主のお名前で祈ることによって妬みの感情から完全に解放されますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。